「bench(ベンチ)」展評



宮日新聞「標点」から抜粋(1996.6.26)
文化部長 山口俊郎


物語の固定化を絶えざる“移動”によって流動化しようとしているのが、小林さんの「bench(ベンチ)」である。こちらもモノクロ写真で、壁面いっぱいに並べた四ヵ所の街の風景写真をそれぞれ百枚のパーツに分割、そのパーツ自体が元の風景にズレとノイズを発していく、いわば風景の巨大なアラベスク(織物)のような仕掛けになっている。
この写真から私たちが受け取るのは、切り取られた風景がイメージとして定着する寸前に別の次元に移動、記録とフィクションの境界さえもがあいまいになっていく“無限膨張運動”のような印象だ。ここでは風景は、風景を内面化した作者の投影像として差し出されるのではない。むしろ内面化や固定化を拒絶するための解体・構築の連続性としてとらえられている。
この試みが興味深いのは、それが「現在」を表現する優れた隠喩(いんゆ)になっているからだ。切り取られた風景の物語は必然だが、それはいわば「反物語」としての風景と言ってもよい。ここでは風景写真に見られる自己と世界の調和的な関係ははぐらかされ、風景は像として着地しないままたゆとう。まるで「現在」が巨大な空洞であるかのように、だ



宮日新聞「アートコラム」から抜粋(1999.6.30)
宮大教育学部文化学部助教授 石川千佳子


小林順一氏の展示は写真を使ったインスタレーションといった方がよい。
フレームに収まったオリジナルプリントの代わりに、倉庫の一室のようなギャラリーの壁を埋めるのは、ペラペラのコピーである。画質の質こそ鮮明だが、端に白い枠を残した同じサイズのコピー用紙が四方の壁に貼りめぐらされ、宮崎の見慣れた街角や海浜の風景を映し出す。
この展示の場合、モノクロームであることは、脱色し希薄化する方向にはたらく。
矩(く)形の写真コピーは、集合して、壁一面ごとに一つの風景と分かるまとまりを造りもするが、その画像は重なりながらずれ、反復され、あるいは不自然に切り取られたままに、連結されている。
あらかじめ大きく引き伸ばした画像を分割し、構成的にずらして並び換えたのではない。手で視点をずらしながら撮った写真を並べるという手法から、美的な判断の網をうまく逃れるルーズさと、生な、造り込まれていないリアルさが現れておもしろい。
中心に置かれた赤いベンチに座って、漠然とした視線を投げてみると、見る者の方が、風景を乱反射する、ひび割れた鏡と化していくようだ。
ただし、不安も保留される。視線を解放する海浜風景を一面に配した作者のバランス感覚が、ノスタルジーに向かう回路を閉ざしはしないのだ。

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