小林順一の「FACE」を視る


宮崎市から「フエノメナ」という同人誌が送られてきて、冒頭16枚の老人の顔のアップの写真を見たときは、その迫力に圧倒されてしまった。たとえプロのものであろうと、送られてくる写真集からこれほどのインパクトを与えられることはないといっていい。なぜなら、小林順一氏の作品「FACE]はその16枚からのみなっており、そのどれからも同じ圧力を受けるので、ふつう一冊の写真集には数点のよい作品があっても、それ以外にたくさんの凡庸な写真が一緒に編集されているものだから、全体としては微笑ましい努力の成果という印象を与えることになるからである。

この充実した作品をまとめるまでに小林氏がなにを考え、どういう意図と覚悟 をもって取り組んだかは知らない。しかし宮崎にこういう力のある作家がいると知って嬉しく、早速筆を取って、このような写真を50点並べたら圧倒的な展覧会になるから、ぜひ東京で実現するようにと励ましの手紙を書いた。それがこのたび Mole(1992年12月)で開催されることになったそうで、その成果如何と楽しみにしている。
※ Moleでの開催は個人的な理由により中止になりました。


私は昔『映像と言語』(紀伊国屋書店)という本を書いて、その中の「存在の発見」とう章で、ホースト・タップが撮った、ドン・サルヴアドール・マダリアガのクローズアップのプロフイールについて論じたことがある。「対象をこの角度から、この距離で見た作者の意識には、この老人の精神的価値を表現するだけでなく、一個の人間の、あるいは、動物の頭部としての肉体的存在感を把握し、表現しようという意識があったであろう。タップは対象に接近して精神的距離と環境を排除し、主観に染まらぬ対象の存在を静かに凝視するアングルを選ばなければならない。作者はただ凝視する目になって対象の前から姿を消す。凝視する目はカメラ・アイと私の目に等質に転換することが可能である結果、私の意識はもっぱら対象に注がれ、作者の存在を忘れる。作者の主観を離れた対象の存在そのものの表現は、写真映像の本質的な機能に即した、写真のもっとも得意とする分野である。」

ここでは目のことを語っている。ふつう人間がものを見るときには一定の距離をおき、象の輪郭をとらえ、周囲との関係や奥行の中で見るものだ。近づいて見るときは一時的に天眼鏡になって対象を調べるものであって、そのときは人間の目というよりも道具の目になっている。ここでカメラは人間か道具か、それともカメラという独特の主体的な目であるのか。心眼が人間の目を超越した精神の目であるとすれば、カメラ・アイはやはり人間の目を超越した、身体=精神の目なのであろうし、またそこに到達しなければただの人間の目の延長や部分であり、また機械の記録装置であって、それ自体が生命を持った作品としての写真を生み出すことにはならないであろう。

 それではこの身体=精神の目とは何であろうか、小林氏の作品はそれについて考えさせるものをもっている。老人の顔はどの民族のものであろうと、可愛らしい子供や美しい女のよりも、年輪と歴史を刻んで味わいをもっている。しかしこれらの写真はそれをどこかの老人ホームで生活している老人として撮っているのではなく、人間という生命体の「老性」(oldness)に迫ろうとしている。人間を風情として外から眺めるのでなく、カメラで肉体の中に押し入ろうとしている。これは見る距離でなく触れる距離である。だから観る人はその迫ってくる顔面の圧力に抗しかねて、思わず身を引き、相手から顔を離したくなる。物ならば、このように近くから見つづけることもあるが、人間の顔にこれほど自分の顔を近ずけるのは接吻するときでしかない。相手に目があり、自分を見ているのだから、その視線に抗して近ずくのは相手に受け入れられるときである。カメラには望遠レンズや写真のトリミングという接近の方法もあるが、いずれにせよ小林氏のカメラは老人たちの顔の中に半ば埋め込まれているというか、その顔がカメラの中に、それを見るものの顔の中に半ばは入り込んでくる思いがする。

 こういう言い方は相手が老人であるから性的欲望とは無縁だが、視覚を身体(ボデイー)の中に埋め戻し、写真表現を表面的・感覚的見る行為から半ば盲目的な、肉体的・性的行為へと超える危機を内包しているように思える。写真は作者の身体の前に付加された別のボデイーの全面に開かれたレンズによって、遠隔操作的に対象をかすめ取る行為ではなく、自分の身体の中に埋め込まれたレンズという器官によつて対象の内部に挿し込まれ、対象の表面の視覚だけではなく、対象の肉ごと感じ取り、自分の肉体に受けとめ、そこに作品を開花させるものではないか。小林氏の作品はそのようなことを私に教えてくれた。

====================================近藤 耕人氏は1933年生まれ、現在・明治大学教授 

著書−「映像と言語」(紀伊国屋新書)「映像言語と想像力」(三一書房)
   「見ることと語ること」(青土社)

訳書− スーザン・ソンタグの「写真論」(晶文社)


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